|
イスラームと女性 −イスラーム的女性解放− (2)
ハウラ・中田香織 |
|
クルアーンとハディースの示す男女の成り立ちと関係 イスラームが男女の結びつきを肯定的に捉え、非常に積極的な意味を付与していることが確認できたところで、イスラームにおける結婚のあり方について考察してみたい。 《見合い結婚》
身内以外の男女の接触を制限するイスラームにおいては未婚男女の自由交際はあり得ない。従って結婚はほとんどの場合が見合いで始まる。日本でもかつては見合い結婚が主流だったが、今ではすっかり廃れ(とはいえ最近の結婚難から新しい商売として「見合い」業が流行っているらしいが)、若い女性の誰もが「結婚相手は自分で選ぶ」と息巻き、見合い結婚が愛のない結婚であるかのように「恋愛」にこだわる。イスラームが「野蛮な、個人の自由を無視した」宗教と誤解される理由の一つも、原則的に自由恋愛を認めないところにあるようだ。しかし、イスラーム式の結婚に多くの叡智が隠されていることは、少し冷静に検討してみればすぐに分かることである。 まず、「見合い結婚イコール愛のない結婚」という図式は明らかに誤りである。見合いと恋愛の違いは出会いが人工的か偶然かの違いに過ぎない。後の心理はどちらも同じものである。相手が気に入ればたちまち恋に陥り、普通の恋愛同様に胸をときめかせたり、胸を痛めたりするのである。 見合いの方はもともと物理的条件が揃っているから、この人と結婚したいという気持ちになった後の手順が容易だが、恋愛の場合は、その後二人が一緒になるための諸障害に対処しなければならないため、往々にして困難を伴い、乗り切れずに破局となる場合もある。また、見合いの方は結婚を意識した上での交際であるため、双方とも真剣で結論も早く出るが、恋愛の場合は遠回しに相手の真意を探るところから始めなくてはならず、結婚を意識し合うようになるまでに多くの時間と様々な心理的駆け引きのために精力を費やした上、往々にしてそうした努力は不毛に終わる。 よく知りもしない相手とよくも結婚できるものだ、と思うかもしれないが、よく知り合った上で踏み切った結婚が失敗に終わることが現実には大変多い。「私にはこの人しかいない」と思った恋愛もいつか冷め、しばらく後には別の相手に対し同じような感情を抱き始める。「愛」の手形がいかに不確かなものかがよく分かる。 人は三回も会って話せば相手がどんな人間かは見当がつくもので、その判断はたいていの場合間違いない。男と女は本質的に惹かれ合うように出来ているから、よほど相性が合わない二人でない限り、共通の時間をいくらか過ごせばほとんど必ず相手を異性として意識し、愛着を覚えるようになるものなのである。ムスリム夫婦の愛は、まず同じ神を信仰する兄弟姉妹としての愛を土台とし、その上に夫婦としての絆に結ばれる。「夫婦として」とは、単に男女が一対となることを意味するのではなく、夫は妻に対し、妻は夫に対して、それぞれ神の命じ給うた義務を負った者同士として向き合うということである。夫婦とは個人的な関係にとどまるものではなく、宗教義務を果たす場でもあるのだ。結婚が信仰の半分と言われるのもそのためだろう。 イスラームでは身内以外の男女が接触する機会は最小限に押さえられるから、妻にとって男は夫よりなく、夫にとっても女は妻より他にない。それゆえ、男が女に覚える吸引力、女が男に覚える吸引力はもっぱら夫婦の間で働く。恋愛のように強い感情は最初はないかもしれないが、時を重ねるにつれ、夫婦の愛は確実に深まり、互いになくてはならない存在となっていく。ムスリムは神の定められた宿命を信じるから、結婚する相手は常に「宿命の人」である。 見合いによって成立するイスラーム式の結婚には親の意向が強く反映され、結婚は愛情問題というよりは財産、家柄の問題として処理され、本人の意向を無視した強制結婚もしばしばである、という話を聞く。たぶんに事実であることは確かだが、それはイスラームの習慣ではない。確かにイスラームでは結婚契約を取り交わすのは妻の保護者である父と夫と定められているが、それは女性の意思が無視され、物のように取り交わされると言うことではない。「既婚の女性はその意向を尋ねてからでなければ嫁がせてはならず、また処女はその同意を得てからでなければ嫁がせてはならない。・・・」(アル=ブハーリーの伝える伝承)とはっきり預言者は言っておられる。ある時、預言者(彼の上に祝福と平安あれ)の元に若い娘が来て「父が私を甥と結婚させようとしていますが、私は彼を嫌っています。」と訴えると、彼は、決めるのは彼女自身だ、と答えられた。すると娘は「では私は父の決定を受け入れます。ただ、私は女性たちに、親がこの件(結婚)に関し強制する権利がないことを知らせたかったのです。」と言ったと伝えられる。また、よく誤解されることだが、夫からの結婚金は妻の家族に女性を買い取るような形で与えられるものではなく、妻個人に贈り物として贈られるものである。 既に結婚している相手と肉体関係を持つことは一般的に倫理観からして許されないことだが、実を言えば人を好きになるのに未婚も既婚も関係ない。男女が自由に接触する状況にあっては禁じられた間柄の間に禁じられた感情が生まれることは避けられないのである。だからこそイスラームは賢明にも、男女が禁じられた感情に苦しむようになる以前にそのような感情の生まれる機会を作らないように命じているのである。女性の美を隠すヒジャーブ(覆い)もまた、一つにはそのような目的から定められたに違いない。
《ヒジャーブ》 『男の信者たちに言え、視線を下げ、貞潔を守れと。その方が彼らにとっては清廉である。アッラーは彼らの為すことをご存知である。また、女の信者たちに言え、視線を下げ、貞潔を守れ。そしておのずと現れるもの以外は己の身の飾りを現すなと。また、彼女らは覆いを胸まで垂らすように。己の身の飾りを現してはならない。夫、父、夫の父、自分の息子、夫の息子、兄弟、兄弟の息子、姉妹の息子、自分の女たち、右手に所有する者(奴隷)、欲望を持たない男の従者、あるいは女の秘所について知らない幼児に対するほかは。・・・』(第24章[御光]30‐31節) 『預言者よ、おまえの妻たち、娘たち、また信者の女たちに言え。長衣を纏うようにと。そうすれば見分けがつきやすく、危害を加えられることがないであろう。』(第33章[部族連合]59節) クルアーンの中のこれらの節は、ムスリムが身内の結婚対象となり得ない男性を除き全ての異性に対し身を覆わなければならないことを命じている。「成人に達した女性は、ここを除きどの部分も見られてはならない。」と言って顔と手を示された。というハディースもある。(アル=バイハキ−の伝える伝承)女性の性的魅力は夫に対してのみ発揮させるべきなのである。妻は夫のために身を飾り、夫も妻のために装う。一体これが「抑圧」だろうか。 誤解されていることが多いので補足すれば、身体を隠さなければならないのはなにも女性に限らない。隠すべきとされる部分は異なるが、男性も「恥部」すなわちへそから下、ひざから上は隠さなければならない。アラブの男性の民族衣装がタブッとした上着であるものも、男性の象徴をあからさまに誇示しないためだろう。 また、秘所を隠さなければならないのは、異性の他人に対してだけではない。女性同士、男性同士でも秘所は隠し合わなければならないし、夫婦、親子間においても同様だ。これは別に裸体(肉体)を卑しいもの、汚れたものとみなしていることではなく、「羞恥」という非常に人間的な、文化的な感情を尊重するためであろう。 『信仰する者よ、おまえたちの右手の所有する者と身内の未成年者には三つの時間には(部屋に)入る許しを求めさせよ。暁の礼拝前、真昼に脱衣している時、夜の礼拝後、おまえたちが素肌でいる三つの時間である。・・・』(第24章[御光]58節) 「あなた方の誰でも妻のところへ行く時には恥部に注意しなさい。服を脱ぎ捨て猿のように素裸になるべきではありません。」(イブン・マージャの伝える伝承) 「男は誰も裸の男を見てはならず、女は誰も裸の女を見てはなりません。」(ムスリムの伝える伝承) この「恥の心」、これこそが人間を人間らしくするものだ。海辺でビキニ姿になる女性が同じ格好で町の中を歩かないのか。人間の裸体が自然のものなら、なぜ服を脱ぎ捨てないのか。モラルを信じられなくなった現代人は、羞恥心を習慣によって受け継いだ無意味な感情とみなし、無理やりにもそれをはぎ捨てようとし、我も我もと裸に近い格好を晒すようになった。そしてそれを「解放」だと勘違いしている。 話を結婚に戻すと、自分で結婚相手を見つけなければならない今日の女性は、不特定多数の男性に対し、自分の性的魅力をアピールし、いわば「商品」として売り込まなければならない。そのため、若い未婚女性は自分の容姿にひたすら心を砕き、鼻が低いの、目が小さいの、髪が強いの、足が太いのに小さな胸を痛めなければならない。外見に自分という人間の評価が集約されるかのような有り様だ。 自己アピールのための美の追及はともかく、最近の女性は娼婦とまがうばかりの露出度の高い格好をしている。彼女たちにそこまで己の「女性性」をアピールさせているのは何か。女として特別扱いされることを嫌い、あらゆる分野において男並みの働きをする女性が増えている一方で、「私は女よ」となぜあれほどまでに声高く彼女たちは主張しなければならないのか。女性の身体的特徴をあのように強調するのは、貞淑さを要求され、性的魅力を包み隠さなければならなかった過去の倫理観から解放され、自分の肉体を取り戻した彼女たちの凱旋の表現だろうか。女性があのように自分の身体をオブジェ化して男の眼面に晒すのは、むしろ女性性の疎外に苦しむ彼女たちの無意識の叫びのような気がしてならない。「どうか私を女と認めて!」という悲痛な叫び声が聞こえてくるような気がする。 いずれにせよ、(人間としての)内面よりも(女性としての)外見が評価される今日の風潮の根底に女性差別がないと言えないことは確かだ。むしろヒジャーブによって女性的部分を隠したムスリマの方が、ずっと「人間として」男性と向き合っている。イスラーム世界では、女性が「職場の花」を演じさせられたり「お茶くみ、コピー取り」といった男性社員の補助に回されることはない。かわいい子ぶって愛想笑いする必要もなく新車の横に裸同然の格好で立たされることもない。どちらの方が女性を尊重しているか、一見して明らかではないか。 男と女の間に一線を引くイスラーム世界では、男の世界と女の世界がはっきり分かれている。男性が社会の中心にあり、女性が片隅に追いやられているのではなく、二つの別の世界を構成しているのだ。「男は仕事に、女は家庭に」、これがイスラームにおける原則的な男女の役割分担だが、それは女性に活動の場が奪われていることを意味しない。今日は「専業主婦」という立場がずいぶん低く評価され、出産によってやむなく退職した女性が、まるで夫の付属物になってしまったような焦りと、社会から取り残されたような孤立感を味わう、という話はよく耳にする話である。確かに小さなアパートで外との接触もなく一日中子供を相手に明け暮れていれば、「一体私の人生って何」という気持ちにもなってくるのも分からないでもない。しかし、自己の実現のためには何も収入を伴う仕事に従事する必要はないのである。職場において自分にしか出来ない仕事のできる女性は多くないだろうが、家庭では自分にしか果たせない妻として母としての役割を果たすことができるし、生活の心配がない分、儲け抜きで人の役に立つ社会福祉活動に心置きなく従事できる。若い専業主婦が自分の居場所を見出せないのは、女性の世界がないからだろう。イスラームにおいて女性は家族、親類、隣人といった横の関係をつなぐ核として欠かせない役割を果たす。今日、高齢化社会の到来とともに老人福祉の問題が深刻化しているが、こうした分野にこそ女性の力は発揮されるべきではないか。主婦は人と人のつながりを結ぶ重要な分子の役割を果たすべきなのである。そして、そうした主婦の労働はもっともっと社会的に高く評価されなければならない。近年日本でも主婦のボランティア活動がずいぶん盛んになってきたようだが、女性の力はこの方向で生かされるべきだろう。男たちが取りこまれた資本主義・能率主義の賃金労働システムの中に女まで無理やり参入する必要は全くないのである。 ヒジャーブに関して補足すれば、信仰あるムスリマ(女性イスラーム教徒)は「信仰の証し」であるヒジャーブを誇りにこそ思え、抑圧の印だとはわずかにも思っていない。体のラインを隠すゆったりした上衣は、今日の若い女性が死ぬほど胸をいためる身体的コンプレックスを覆い隠してくれるし、サウディアラビアや原理主義者と呼ばれる女性たちが着る全身をすっぽり覆う黒衣になると、貧富の差や年齢までも隠してくれる。媚を振って歩く必要もなければ「女らしい」座り方をする必要もない。 服を着ていようといまいと、壇の上だろうと路上だろうと、程度の違いこそあれ「性を商品化する視線」は今の社会の至る所にあるし、どんなにフェミニストたちがいきり立っても決してなくならないだろう。そうした視線から女性を守れるのはヒジャーブしかない。蜂蜜の皿に蓋もせずに外に晒しておきながら、拠ってくる蝿に「いまいましい」と苛立つのは愚かしいことだ。 イスラーム教徒の女性が「ヴェールを脱ぎ捨てて解放される日」は決して来ないだろう。女性の真の解放の鍵はむしろヒジャーブにある。現にヴェール回帰現象は若い女性の間に急速に広がっている。そして西欧でも、現代の西欧型女性像を究極の女性像としてイスラーム圏の女性に押し付けることの間違いにそろそろ気付き始めたようだ。
|