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アッサラーム 3

アッサラーム No.3(1)

1976年12月5日発行

★  わが体験的文明論-イスラーム教と革新性     最首公司

(東京新聞経済部次長、日本ムスリム協会理事)

★   メッカへの道(2) ムハマド・アサッド

★  われわれは、なぜイスラームに帰依したか トーマス・ムハムマド・クレイトン

★ わが体験的文明論-イスラーム教と革新性      最首公司

(東京新聞経済部次長、日本ムスリム協会理事)

宗教が文明にとって阻害要因であり、社会の近代化を阻むものだとする風潮は、日本ではことに強い。インドを旅行してきた人は「インドの貧困と飢餓はヒンズー教から来ている」と説き、アラブ諸国をまわってきた人は「アラブが、かって西欧の植民地となり、いまなお砂漠の中に置き去りにされているのはイスラーム教のせいだ」と解説する。宗教の束縛を脱しない限り、これらの国の近代化は達成されない、というのだ。とくにイスラーム教の、日に五回の礼拝、一ケ月に及ぶ断食、ブタ肉の禁忌、女性の地位、どれをとっても今日の日本人には「非合理性」「非経済的」「反近代化」として映るようだ。

日本人は天皇を”国の父”とする「国家神道」(日本人が自然との素朴な対話の中で育んできた神道とは区別しなければならない)によって太平洋戦争に駆り立てられていった。「神国日本は不滅である」と信じ込まされて、爆弾を抱えて敵の軍艦に体当りしたり、竹やりを持って戦争に突っ込んでいった。日本では最も激しい戦いをした沖縄には、当時の将兵が壕に刻み込んだ「神州不滅」「死して護国の鬼とならん」「七生報国」といった言葉が残っている。

戦後の日本人の精神活動は、こうした宗教に対する盲信がいかに馬鹿げていたかを知ることから始まった。宗教を否定し国家神道から離反することが、反戦平和への第一歩と考えられ、マルクス王義やアナーキズム、ニヒリズムヘ走る人、あるいは敵国の宗教であったキリスト教に転向する人がふえた。外国人はよく「日本人は宗教心がない」という。宗教心があるとかないとかを、どのような現象を見ていっているのか私にはわからないが、日本人と宗教のかかわり合いを見るとき、民族としての日本人の戦争体験を抜きにしては語れない。戦後三十年を経過した今日でも、日本人の戦争体験は既存宗教に対して疑惑と不信感を抱かせている。だから日本人の平和への希求は欧米のような宗教的良心に基くのでなく、憲法第九条への、“信仰”となって結集しているのである。

では、日本人は「宗教心」、あるいは「信仰」を失ってしまったのだろうか。私はそうは思わない。戦後、「新興宗教」という名で一把ひとからげに総称されたが、多くの宗教が輩出し、そのあるものは淘汰され、そのあるものはいまなお多くの信者を獲得し、活動を続けている。とくに学生や勤労青年にアピールする教団のあることは注目に値いするだろう。

では、宗教のなにが若い人々にアピールするのだろうか。いいかえれば、いったんは多くの信者を集めながら消えてしまう宗教と、いつまでも活動を続け、発展した宗教との違いはどこにあるのだろうか。私はその相違は「自己革新性」の有無にあると思う。教義の解釈が固定され、本質を見ずに形式にこだわり、権威にあぐらをかいて、科学、技術の進歩にともなう時代の変化や、一般信者の生活感情の動きに気づかないような宗教団体は没落していく。逆に常に時代に即応して価値感を創造し、新たな時代への生き方を示す宗教団体は発展していくだろう。

最近、政治結社である日本共産党と宗教団体である創価学会の接近が話題になったが、両者の共通点は「革新性」ということであろう。もっと図式化していえば、日本共産党の信奉者の層と、創価学会の信者の層が同じであるということだ。この層は日本社会の下積みであり、社会の革新、自己の改革を望んでいる。どちらの団体もそれに、こたえようとしていると受け取っていいだろう。

話がわき道にそれたが、私がここで採り上げたいのはイスラーム教の革新性である。宗教が日本で発展する条件として私は「革新性」を挙げたが、イスラーム教にはそれがあるのかないのか、そしてまたイスラーム教は将来の文明を担うに足るものであるのかどうかを、私自身の体験を通じて考えてみたいのである。

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 私とイスラームの出合いは一九六三年にさかのぼる。駐日サウジアラビア大使館のバシール・クルディ書記官、あるいはフセイニー書記官との交流を通じて、私はイスラーム教を教えられた。いや、考えてみると、イスラーム教を私が知ったのはもう少し前だろうか。六一年から六二年にかけて私は学術探査隊の一員としてインドを旅行した。はなはだ物騒で不用心なカルカッタのホテルで、私は一人のボーイと知り合った。「マジット」という彼の名を私はいまでも記憶している。「ボーイに現金を預けるな」というインドでの”掟”に背いて、私は彼に郵便を頼むための切手代、電報を打つための現金、はては隊の買い物を依頼してかなり金を預けた。彼は私の信頼に応えて支出の明細と領収書をそろえ、ツリ銭をきちんと持ってきた。そのマジット青年が朝、昼、晩と床にひざまづいて祈る姿を私は不思議な気持ちで眺めていた。ホテルに滞在中、青年は私にイスラーム教とはどのような宗教かを説明してくれた。「なぜ君はツリ銭を持ってくるのか。ごまかすことだってできるのに。」と、ずっとあとで私が尋ねたとき、「あなたをだませても神をだますことはできません」と答えたのが印象的だった。

インドでの旅についてもう少しふれておきたい。この部分が欠落すると「イムラームと革新性」の議論がボケてしまうからだ。

インド亜大陸の中南部にダンダカラニアという高原地帯がある。長い間、深い密林とトラやコブラに守られて文明の侵略から逃れていた地域である。インド政府が”ブルドーザー部隊”を先頭にたてて開発を進めていくうち、原住民の小さな村落が発見された。新聞記事でそのことを読んだ私たちは学術探査隊を組織してこの原住民部落を調査しようとしたのである。

ジャングルの中でも寝泊りでき、炊事も車内でできるように改装したマイクロバス二台と連絡用のオートバイ二台をもって私たちはその部落に乗り込んだ。夜、ジャングルで道に迷い、わずか一時間たらずの間に三頭のトラに出会ったこともある。フットボールほどの石を踏みはずしたら、下から冬眠中のヘビが跳び出したこともあった。まさに自然の”聖域”だった。

この“聖域”に人間の居住区があった。色はそれほど黒くはないが、体型は日本人なみで、精かんな風貌をしている。ヨーロッパ系アーリア人がインドに侵入してくる以前はドラビダ族という原住民がいたことはよく知られているが、おそらくその一族だろう。狩猟と農耕(焼畑農業)を営んでいるが、ヒンズー教徒が大切にしている牛を飼う習慣はない。

私たちは助手として二人の青年を雇った。インド政府の貨幣が通用しないところなので、給与は食糧や衣料品などの現物支給である。青年は夜明け前に私たちのキャンプに来て湯をわかし、私たちが調査のために出払ったあとはテントの中を片付けてくれた。夕方、私たちが帰るころ、彼らは再び湯をわかしてくれる。

この部落には当然のことながらマッチやライターなどはないので、青年は火ダネを持参するか、それがないときは木と木をこすり合わせ、摩擦熱による発火法を用いて火をつくった。マッチで火をつけてみせると、彼らはビックリして”小さな魔法の箱”をのぞき込んだ。片手でライターの火をつけてみせるとさらに仰天し、まさに腰を抜かさんばかりの驚きようであった。私たちと接することによって彼らは原始時代からいっきに現代文明に飛び込んできたのである。三千年か五千年か、あるいは一万年かわからないが、人間の文明の歴史を一足跳びでやってきたのである。

しかし、本当に驚いたのは彼らでなく、私たちだった。彼らはマッチやライターの便利さを知り、操作できるようになると積極的にそれらを使用したが、自宅に持ち帰ろうとはしなかった。使用はするが私物にしないのである。その理由は、調査を進めるにしたがって明らかになっていったのだが、要するに原始共産制社会なのだ。村の働き手がシカやイノシシの狩りに行く。獲物は病人、老人、子供の分まて平等に分け合う。農業による収穫物も等しく分け合い、土地や畑などについての私有観念がない。わずかに妻と、家の周囲に作っている薬草が私有とされていたが、老人や子供は部落全体で扶養する仕組みになっていた。土と木の葉で作った家は小さく、食物も貧しいものであったが、彼らの生活ぶりはまことにおおらかで、外部から来た私たちでさえ、ある種の安らぎを覚えたほどである。二週間の生活で部落の人の風俗を知り、多くの写真も撮影したが、葬式だけにはぶつからなかった。明日は村を出るという晩、私たちは案内してくれたインド政府の役人もまじえてサヨナラパーティーを開いた。席上、隊員の一人がそのことを話すと、彼はこともなげにいったものである。「今夜、一人死ねば明日は葬式だ。どうしましょうか?」

カーストという人間区別制度のきびしいインドでは、古くから共存している人々ですら不可触賎民と扱われるくらいだから、ジャングルの奥からさまよい出てきたこの村の人たちは、人間として扱ってもらえないのかもしれないが、それにしてもかなり教養もある役人の言葉に驚くとともに、私は人間の文明はいったいなんであったか、人間にとってプラスであったのかマイナスであったのか、深く考えさせられた。

以来、私は「文明」について疑問をもち、科学や技術の進歩というものを、一歩後退して見るようになった。イスラームヘの関心をも含めて、私の精神活動の原点はここにある。

文明に対する疑問が決定的になったのはそれから三年後、長崎の原爆資料館を見学したときだった。

私はカソリック団体が創設した大学で学んだので、キリスト教について若干の知識をもっていた。それによればイエスは「愛」を人類普遍の価値として説いたはずだ。それがどうだろう。長崎の原爆公園には、原爆の閃光で真っ黒に焼けただれたマリアの石像があちこちに横たわり、資料館の中には牛乳ビンを持ったまま被爆した人の手が、ビンと融け合ったまま焼き尽くされたり、鉄カブトと頭蓋骨が融合したものが、あたかも神と人間と文明を嘲笑するかのように無造作に展示されている。いったい誰が、どのような権利があって、このようなむごたらしいことをしたのか。

歴史学者のA.トインビー氏は「われわれは科学や技術をある国民が他の国民を全滅させるための兵器の生産に悪用した。実際においてわれわれのモラルは、われわれの遠い祖先であった原始人たちの水準からあまり高くなったとはいえない。それどころか当時の水準よりもむしろさがっているのかもしれない」(六九年五月一八日付東京新聞)とのべている。

「聖書」に手を置いて宣誓したアメリカ合衆国大統領が、原爆の開発、製造、そして投下の命令を下したとしたら(それはまさにその通りだったのだが)、「人間の導きの書」がこれほど冒涜され、「愛の教え」が踏みにじられたことはあるまい。原爆投下の瞬間から「聖書」は人類救済の使命を失ない、キリスト教は「人類普遍の愛」を説く宗教から「一部の人への愛」を与える教えに変り、トインビー流にいえば原始人よりもモラルを低下させたことになる。

私は「聖書」に手を置いて誓った大統領を例に挙げた。アメリカの指導層が「戦争」という異常な情況下で「戦争を早く終結させる」ために原爆の使用を決定した、という擁護論も確かにある。だが、その後のアメリカはどうであったか。ソ違と競争しながら核兵器の開発を続け、いまでは地球上の全人類と全生物を殺しても余るくらいの核兵器を保有し、ボタン一つでいつでも殺りく可能な状態においている。ベトナム戦争ではアメリカの一部のキリスト教徒が反戦活動をしたが、なぜアメリカの宗教界がアメリカ政府の核開発に反対しないのか、「人類への愛の教え」にかわって核兵器が「核抑止力」の名のもとに、世界の平和を維持させることの危険性を指摘しないのか、教会にかわって大統領が人類の生殺与奪の権利を握ることに異を唱えないのだろうか。長崎の原爆資料館を見学しながら、私はダンダカラニアの日常生活は不便ではあっても、精神的には豊かな一生を送るであろう原住民を思い出し、人間の文明とはいったいなにかを考えていた。

現代文明を考え直すための一つのテコとして、私はアラビア半島のベトウィンの取材を計画した。古今東西の文明に接していながらなぜ彼らは文明を拒絶して砂漠に生活しているのか。不自由と不便と過酷な生活環境の中に戻っていくのか。そこに人類の文明の欠陥を解くカギがありはしないだろうか。私とアラブのつき合いはこうして生まれた。昭和三十九年(一九六四年)十一月、東京オリンピックが終り、東京も私自身の生活も普段の落ち着きを取り戻したころ、私は東京.麻布のサウジアラビア大使館をたずね、B・クルディ氏と知り合った。大使館の近くで独身生活を営んでいた彼は、私を自宅に招いて手料理をつくりながらアラブの習慣、アラブの料理、アラブの言葉を教えてくれた。とくに彼がカを入れたのはイスラーム教のことだった。

当初、私はイスラーム教が禁酒を教えているとは知らなかったから、クルディ氏のほかフセイニ書記官を誘い、銀座のパーに案内したことがある。当時の私としては普段お世話になっている両氏への最大のもてなしと思ってやったことなのだが、そして両氏ともそれをよく理解してくれて、喜こんで応じてくれたのだが、二人ともバーで少しもアルコールを飲まないので店の人に「ヘンなお客さんを連れてきたのね」といわれたものである。

私はずい分身を入れてアラビア語を勉強し、高価なテキストを買って読んだりしたが、間もなくアラビア語をマスターする能力は自分にはないことを自ら知ることになった。とても覚えられないのである。

もう一つショッキングな事件があった。ある日クルデイ氏が珍らしく私を新宿のビヤホールヘ誘い、「あなたにとっては愉快でないニュースがある」と前置きして、朝日新聞がベドウィンの取材をしたいとサウジ大使館に協力を申し入れ、大使もこれを了承し本国政府に取りつぐことになったというのだ。

私は他社に企画を取られて残念だと思ったが、朝日が社を挙げてやるならアラブのPRにもなることだし、サウジアラビアの国情紹介にもなることだから結構なことではないか、と答えた。すでにそのころから、私の関心はベドウィンのことよりもイスラームに移っていた。クルディ氏の紹介でイスラームセンターをたずね斉藤積平氏やサマライ、セバィ、エルズビーといったアラブからの学生とも知り合い、イスラーム勉強会に参加させてもらい現代文明を考える糸口にはベドウィンの生活よりもイスラーム教にあると考えていた。

斉藤積平氏やM.ライス氏の立会いのもとに東京モスクで入信の儀式を行なったのは六七年だった。あえて「入信の儀式」といったのは、私自身はそれ以前から心構えはムスリムのつもりで、金曜日の礼拝に参加したり、断食を実行したり、マングール駐日大使にお伴して塩山の墓苑を訪れたりしていたからである。

六八年三月に行なわれたメッカ大祭(ハッジ)に参加する機会が与えられた。サウジ政府の招待によるもので、同じハッジに参加した斉藤夫妻の例に比べると、私のハッジはきわめて安逸なものであったようだが、それでも私はメッカに集まる巡礼たちの熱気に当てられ、困惑し、混乱し、自分を失なっていたように思う。(メッカ巡礼についてはこのシリーズ第一回のムーサ・M・オマル氏の「メッカ巡礼記」を読まれることをお勧めする)

「メッカヘいっても、ムスリム(イスラム教徒)でなくイスラームに学んでほしい」というクルデイ氏の銭別の言葉ををきいていなかったら、あの混乱と喧騒の中で、私はイスラームに絶望していたかもしれない。メッカは聖地であっても、そこに住む人、集まる人は聖人ばかりではない。とても「現代文明は?」などをのんびり考えてはいられないのである。

私は巡礼が終ると、逃げるようにしてこの国を出た。行く先はカイロでもベイルートでもカラチでもよかった。早く聖地に連らなる土地から脱出したかった。ベイルートに出て洋服を着た男が歩き、スカートをはいた女性が散歩しているのを見た時、私はホッとし、「故郷は遠くにありて想うもの」という室生犀星の詩を思い出していた。それから半年もしたころ、私はまたメッカにもう一度行ってみたいと思うようになった。思うというよりも行くことが義務であるような感じになっていた。いったいこれはどうしたことだろう。いろいろと考えてみた。思い当ることが一つある。

それは巡礼を終えた老人の、あの表情である。私はそのころ、「文明度」を測定する一つの物差しを持っていた。人問の寿命を延ばすことが文明であるなら平均寿命をとればいいし、所得の拡大であるなら国民所得をとればいい。しかし、それでは自由とか生き甲斐とか満足感といった精神的な要素は測れない。結局、私がたどりついた結論は単純かもしれないが「表情」である、それも子供と老人の表情である。その表情をみて文明の尺度とするのだ。日本では漁師の表情がよい。浜辺で網をつくろったり、櫓をあやつる老漁夫の表情は、彼が物質的にも精神的にも安定した生活であることを物語っている。

巡礼を終えた老人の表情は、皮膚や容貌の相違を超えて、羨むべきものがあった。メッカの、いったいなにがそうさせたのだろうか。私はそのナゾを解きたいと思っていた。

メッカ再訪の前に私には三つの地域を旅する機会があった。一つはスウェーデン、デンマークを中心とする北欧である。コペンハーゲンの大学生が市内の公園の中にある小さな島を”占領”し、独立共和国を宣言したり、スウェーデンの学生団体がストックホルムの商店街で「ノン・クリスマス運動」を展開していたころである。私はそれらのリーダーに会い、加えて当時日本でも喧伝されたフリーセックスの旗手たちにもインタビューした。 私の主たる目的はストックホルム郊外に建設中の小都市シャルホルメンに住んでみて、スウェーデンという高度福祉社会の”光と影”を取材することであったが、この体験は私の年来の課題である「文明」を考えるに当って多くの素材を提供してくれた。 二つ目はダイヤモンドの生産から購売、研磨を取材するためにヨーロッパと南アフリカ、南西アフリカ(ナミビア)への旅行。そして三つ目はアメリカ、中米への旅であった。

いずれの旅行でも私は原住民の居住区を訪ねることにしていた。南アではバンツー族の居住区、南西アフリカではピグミーの集落、そして中米パナマではカリブ海に点在する海抜1-3メートルの島の住民モーレ族の村を訪ねた。二十世紀の文明は、地域によって違った華を咲かせている。たとえていえばストックホルムで見たものはステンレスの華であったし、ヨハネスブルグでは黒い土壌に咲いた金の華であった。その裏にはそれぞれ影があった。ステンレスの華の蔭に老人の孤独、青年の自殺、若者の麻薬禍があり、金の華の根元には、一杯のトーモロコシ製の安ビールにしか生き甲斐を見出せないバンツー族がいた。運河によって文明の端緒をつかんだパナマでは、青年たちがアメリカの支配に抵抗する。そのパナマの圧迫を受けて、日本人と祖先を同じくするモーレ族は、ハリケーンがくれば海中に没する島の中であえいでいる。孤独の老人、自殺する青年、麻薬に走る若者、自分の土地で現代の富の象徴である金を堀り出しながら安ビールにしか生き甲斐のないバンツー族、二重の支配に苦しむモーレ族などにとって、文明とはなんであったのか。いやなんであるのか。

私はとくにスウェーデンの青年たちとの対話によって、現代文明のもつ暗い谷間をのぞき込んだように思った。彼らは文明の絆から逃れようと、あえて過激な行動(その代表的なものが反クリスマス運動であった)に出たり、ビアフラ義勇軍やベトナム解放戦争に志願していくのだった。フリーセックスの旗手女性たちも既成の男性優位の文明に対する挑戦だといい、新しいモラルを創造するための戦いだといって頑張っている。キリスト教風土の中で十八世紀以来培われてきた西欧文明が、世界で最も社会福祉の進んだといわれる北欧で崩れつつあるように思えた。

以上のような道草をくった挙句、私は七一年三月、二度目のメッカ入りをした。カイロでのイスラーム国際会議を傍聴したあと斉藤積平氏とオムラを果たしたのだ。メジナまで足をのばし、メジナ大学を訪れて学生たちと懇談する機会も得られた。私の頭には少しづつイスラームの教えと知識が入ってきたようだ。それもさきの「文明」とからみながら。

幸いなことに私は二度目のメッカ訪問がきっかけでアラブの多くの友人を得ることができた。力イロのトーフィック・アウェーダ、メッカのフセイン・セラージ、ジェッダのモハメッド・サラフディーン、そしてトリポリのムアマル・カダフィなどの諸氏である。とくにリビア革命評議会議長として一国の政治を担うカダフィ氏との会見ではイスラーム教と文明について強い示唆を与えられた。

七一年のメッカ再訪以来、私は今日まで毎年一、二回はアラブを訪れ、そのたびにオムラを果たすことができた。七二年春、日本ムスリム協会のミッションの一員としてサウジアラビアを訪問した際は、故ファイサル国王をはじめメッカの宗教学者、教育大臣、情報大臣、ジャーナリストらと会談するチャンスを得た。文明に対する私の考えはこうした中で少しづつ醸成されていった。

そろそろ私自身の考えを述べてみたい。私は学者でもないし、研究者でもない。しかし、イスラームを指針としながらも常にジャーナリストとして、自分自身を客観視する職業柄、イスラーム文明を担う人々の長所も短所も見てきたつもりだ。そうした私自身の体験を通じての考えであることを、まずお断りしておきたい。

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北欧や西欧、つまりキリスト教文化圏を旅行しながら私は一つの発見をした。それは過激派の学生とか、ノー.クリスマス運動を進める青年たち、あるいはマリファナを吸ったり、フリーセックスを唱える若者たちが、それぞれ神父とか教会から離れたところで行なっていることである。いいかえれば、宗教から離脱することによって新しい運動を興し、進めようとしているのだ。デンマークの学生運動の指導者は「なぜ教会へ行かないのか」という私の質問に対して、いまさらという表情で、「この”死んだような体制”はキリスト教が築いたものでしょう。それを打破しようというわれわれがどうしてキリスト教の”象徴”でしかない教会へ行く必要があるだろうか」と答えた。 これ以上、例を挙げる必要はないだろう。要するにキリスト教社会では、革新運動は宗教から離れることによって生れていく。さらにいいかえれば、キリスト教社会にあっては、宗教は革新運動に対して遠心力として機能するようである。

ではイスラーム社会ではどうであろうか。私はサウジアラビアのサウド政権とリビアのカダフィ政権の政体と政治目標を調べているが、政体は異っても目標は同じであることに気がついた。サウジアラビアはその国名が表現しているように「サウド家のアラビア」である。サウド家がこの国を支配しているのだが、それを聞くと日本人の多くは天皇家支配の日本やルイ王朝時代のフランスを一連想して絶対君王制だと錯覚する。

しかし、この国では国王といえども年一回行なわれるメッカ大祭には一般信徒とともに、まったく上下の隔てなく一巡礼として参加するし、年一回の断食月には同じように断食をする。また毎週決った日に国民を王宮に招いて苦情や政府に対する注文、要求などを直接聞いている。国王は”竹のカーテン”とか”雲上の人”とかいわれるものではない。

一方、リビアは一九六九年無血革命によって王政を倒し、共和制を敷いた国である。アラブ世界にあっては”急進派”"革命派”の代表といわれているために、日本人の多くは共産主義よりも左寄りの過激国家と受け取っているが、事実はカダフィ議長自身も熱心なムスリムであり、教会の数は革命後の方が多く建設されているくらいである。

カダフィはイスラーム教と文明の関係について次のようにいっている。「文明には二つの側面がある。一つはポジティブな面だ。これは人間の生活を豊かにし、便利にする。だが一方で文明は人間を堕落させ、公害をもたらし、人類を絶滅させても余るくらいの大量殺りく兵器を開発した。これはネガティブな面といえる。では、文明をストップさせるべきか。答えはノーだアラブはこんごも文明化を進めなければならない。そのとき重要なことは「ポジを採り、ネガを捨てていくことだろう。そこで問題はなにがポジでなにがネガかということだが、われわれはその判断の物差しとしてイスラーム教を用いる。したがって文明を進めるに当ってイスラーム教は妨げになるどころか、必要条件だというべきだ」。

“革新派”といわれ、”急進派”といわれるカダフィ政権が熱心なイスラーム支持派であるということは、イスラーム圏での革新運動を見るうえで非常に重要である。サウジアラビアは伝統にきわめて忠実であろうとする一方で、民生の安定、国防の充実、敵対行為に対抗する措置などについては、大変、果断な政策をとっている。しかもサウジアラビアがイスラーム教各派の中でも最も厳格な教義をとっているといわれるワッハビー派に属していることに注目したい。

イスラーム圏ではどうやら革新運動は宗教と離れずに、むしろ近いところから発生しているようである。いいかえれば、イスラーム教は革新運動に対して求心力として機能しているといえよう。これはキリスト教革新運動との関係とまったく反対である。なぜだろうか。

いくつかの理由が挙げられようが、その大きな要素の一つとして予言者の位置付けがあると思う。イスラーム教では予言者マホメット(日本の慣習に従ってこう書く)はたくさん輩出した予言者の中でも最後の予言者であり、したがってマホメットを通じて人類にもたらされた神の言葉は最後の啓示であるとされる。キリスト教はこの点あいまいである。

マホメットが最後の予言者であり、コーランが最後の啓示であるのだから、なにか新しいことをやろうとする場合、あるいは新しい事態に遭遇した場合、マホメットの教えに従い、コーランに当たらなければならない。イスラーム世界にあって宗教が求心力として作用するのはこのためではないだろうか。この求心力が作用する限り、イスラーム教は革新性を蓄えているということができるだろう。

イスラーム教こそ現代科学、技術とわれわれの精神の間によこたわる深いミゾを埋め、新しい社会を築き上げていくと私は確信している。(一九七五年九月)

 

★   メッカへの道(2) ムハマド・アサッド

私が最初にイブン・サウド王に会ったのは、イスラームに改宗した数ヶ月後の一九二七年のはじめ、メッカでのことであった。

私がはじめてメッカに巡礼に行ったとき、随行していた妻が、最近、突然の死に見舞われた。このため、私は無感動になり、気むずかしくなっていた。それでも私は、まったくの暗闇と孤独から抜け出そうと必死の努力を続けていた。ほとんどの時間をロッジで過ごし、ほんの数人の人にしか会わなかった。そしてここ数週間の間、慣例となっていた王への訪問さえ避けていた。

ある日、イブン・サウドの外人客の一人、インドネシアのハジ・アゴスサリームがきた時だったと思う。私は王の命で、私の名が招待客のリストに載せられていると告げられた。彼は、私を招待した理由をしらせれているようだった。そして私は、冷静に考えてそれを受託した。

そんなわけで、ホストの顔をまだ見たこともない私は、イエメン山道の道を抜け、岩の多い峡谷に近い、メッカの南端の、しゃれた家に出向いていった。

テラスからは、市の全貌を見渡すことができた。大モスクの尖塔、有色煉瓦の欄干状の屋根をもった何千もの白い四角い家々、流動する金属のように光り輝く空によって丸く映し出された死の砂丘の群れ………

私は、もし王の次男、アミール・ファイサルと大モスクのアーケードの下の図書館で出会う機会を得なかったら、王を訪問するのを延期していたかもしれなかった。わたしは、古代アラブ、ペルシア、トルコの書籍に囲まれた長く狭い部屋の中で座っているのが好きだった。その静けさと暗さは、私に安らぎを与えてくれた。しかし、ある日、いつもの静寂は武装したボディーガードに先導された一団の男達が入って来たことで破られた。それは図書館を抜けて、カーバ神殿にむかうアミール・ファイサルとその随行員一行であった。彼は背が高く、痩身で、あご髪もたくわえていないのに、二十二才とは、とても思えない威厳を備えていた。

その若さにありながら、二年前父、イブン・サウドが国土を征服して以来、ファイサルはヘジャズの総督という重要なポストを任されていた。一方、彼の長兄サウド皇子は、ネジドの総督としてあり、イブン・サウド王自身は、一年の半分はヘジャズの首都メッカですごし、残りの半年は、ネジドの首都リヤドで送っていた。親しくしていた若いメッカの学者である図書館員は、私をファイサル皇子に紹介してくれた。握手をかわし、おじぎをする私の頭のうしろに軽く手をやり、ファイサル皇子は暖かい微笑をこぼされた。

「私たちネジドの民は、人の前では決して身をかがめることはしない。人間は礼拝の時、ただアルラーの前でのみおじぎをするのです」

その時、彼から受けた親切そうで、多少遠慮がちではにかんだ最初の印象は、その後彼を知れば知るほど強いものとなっていった。彼のもっている高貴さは見せかけのものではなく、それは彼自身の内からうまれてきているように思われた。

図書館の中で言葉をかわしているうちに突然、このような皇子の父親に会ってみたいという熱い気持がわきあがってきた。

「どうして父をそんなに避けるのですか彼は喜こんで会ってくれるでしょうに」

アミール・ファイサルは、そう答えてくれた。そして翌朝、車でむかえにきてくれたアミールの秘書と共に王宮に向かった。

車はアル・マアーラという市場通りを進んだ。ラクダの鞍、アバ(民族衣裳)やカーペット、皮の水筒、銀細工をほどこしてある刀・テント・金属製のコーヒーポット、ありとあらゆる商品雑貨を売るベドウィンや競売人達。ラクダのやかましい鳴き声、その喧騒の中を車はゆっくりと走り、広く静かで幅広い道を抜け、ついに王の住む大きな建物の前に着いた。王宮前の広場は、鞍をつけたたくさんのラクダであふれ、何十人もの武装した奴隷や召使いが入り口の階段のところにたむろしていた。私は床に高価なじゅうたんの敷きつめられた広い部屋に待たされた。幅広いカーキ色のカバーの長椅子が壁際に置いてあり、木々の緑が窓から望まれた。乾燥した不毛のメッカの土壌から緑の庭を造るには、たいへんな労力を費やしたことであろう。

黒人奴隷があらわれた。「王がいらっしゃるよう、おっしゃっておられます」私は同じような部屋に通された。そこは前の部屋よりも少し小さく、明るい部屋で、一方の側は庭に面していた。床には豪著なペルシャじゅうたんが敷かれていた。張り出し窓から庭を望みながら、王は長椅子に足を組んで座り、足元の床の上では、秘書官が王の口述を書きとっていた。

私を見るやいなや、王は立ち上がり両手をさしのべて、「アハラン・ワサ・ハラン(よくいらっしゃいました)」と最高の敬意をもって迎えてくれた。しばらくの間、イブン・サウド王の巨人のような背の高さに驚きの目をみはった。ネジドの慣習に従って、彼の鼻と額に軽くキスをしようとした時、六フィートの身長のある私でさえ、つま先立たなければならず、王も前かがみにならなければならなかった。

王は、「少し待ってくれ、もうすぐ手紙がおわるから」と言って、秘書にすまなさそうにしながら、私を長椅子の自分のそばに導き、腰をおろした。一方で、彼は手紙の口述をやりながら、私との会話も続けていたが、決して二つを混同することはなかった。

二、三のお定まりの会話をした後、私は自分の紹介状を手渡した。王はそれに目を通した。それは同時に三つのことをやっていることになる。私の祝福がおわったあと、彼は指示や問い合わせをやめることなしに、コーヒーを入れるよう命じた。その時になると、もっとよく彼を観察することができた。

彼は、非常にいい体つきをしていたので、少なくとも六フィート半はゆうにある彼の身長は、立った時など一見してそれとわかった。彼の顔は、伝統的な紅白の格子縞のクフィーヤ(アラビア頭巾)に、金色の筋の入ったイカル(頭巾止め)をかけており、きわだって男性的であった。彼はナジド風に短かく刈り込んだあごひげと口ひげをたくわえていた。彼の額は広く、鼻は力強く、カギ鼻で、口は見ようによっては女性的にも見えた。しかし、それでいて柔和な感じはなく、その中に繊細な優しさを秘めていたように思える。彼がしゃべっている間、彼の表情はいつになくきびきびしていて生気があるようだった。しかし、会話がとだえると、あたかも内面的な寂しさがにじみでているようで、どこか悲しそうなところがあった。彼の深くおちついた目は、なにかこのことに関連していたのかもしれない。彼の顔の優雅な気品は、左目のぼんやりした視線のため、少しそこなわれているようだった。あとでこの苦難の話しを知ったのだが、多くの人達は、よく知らないままそのことをごく自然な理由に帰していた。しかし、実際それは悲劇的な環境のもとでおこったことだった。

数年前のことだった。妻の一人が、仇敵イブン.ラシッド家にそそのかされて、ナジドの儀典で使われていた小さな香炉に毒をもったのである。彼を殺そうとした明確な意図をもったものであった。いつものように香炉は、まずはじめに王に手渡され、そして客の間をまわされることになっていた。イブン・サウドは、最初の一服を吸い込むやいなや、すぐにこの香には何か悪いものがはいっていると感じ、その炉を地面にたたきつけた。この決断のおかげで彼の命は救われた。しかし、左目は犯されて、なかば盲目状態になってしまった。それにもかかわらず、彼は他の多くの君主達がやるように、不忠な婦人に復讐するようなことはせず、彼女を許してやった。なぜなら彼は、彼女がイブン・ラシッド家と関係ある家であったことから、その影響に抗しきれなかったのだと思っていたからである。彼は単に彼女を離婚しただけでなく、ヘイルにある彼女の家まで、多くの金や贈り物をつけて送り返してやった。

最初の会見がおわってからというもの、王は、ほとんど毎日のように私を呼びに人を使わしてきた。ある朝、私はある依頼をしようと、王のもとへ出向いていった。その依頼は、いつも認められるような多くの希望ではなく、国の内陸部を旅する許可をほしいという依頼であった。なぜなら王は、当時通例として、外国人がナジドを訪れるのを許可してなかったからである。それにもかかわらず、私がまさにこのことを切り出そうとした時、王は、突然私のいわんとすることを見通したように、鋭い視線で私の方を一蔑すると、笑ってこういった。「ムハムマドさん。私といっしょにナジドに行って、リヤドで数カ月滞在しませんか。」

私は仰天してしまった。なおさら、そこにいた他の人々はびっくりしていたようだった。異邦人がこのような自発的な招待を受けたのは、ほとんど聞いたことがなかった。彼は続けた。「私は来月あなたに、私と共に車で旅をしていただきたいと思います。」私は大きく息を吸って答えた。「神は、あなたの命をのばされるかもしれませんね。しかし何のために私にそうなさるのでしょう。砂漠や砂丘を横切ってあなたの国の色々な物を見ることなしに、また、どこかの地平線上で影のように生きている人達と会うことなしに、五日か六日でメッカからリヤドまでひゅっといってしまって、何がおもしろいでしょう。もし、あなたに異議がなければ、車で同行するよりも、はるかに時間がかかるかもしれませんが、ラクダが私に最適と思います。」

イブン・サウドは笑った。そして言った。「あなたは、すっかりベドウィンの目に魅了されているようですね。しかし、私は前もってあなたに警告しなければならない。彼等は、遅れた人間達だ。それにナジドは何の魅力もない砂漠の土地だ。ラクダの鞍は、きついだろうし、食物も旅の途では貧しいものになる。米とナツメヤシと時々はいる肉以外の何もありはしない。だがそうしてみてもいいだろう。もしあなたが、そう思っているのなら、ラクダにのれるだろう。結局、あなたが私の国民を知って後悔しないようであれば、それもいいことかもしれない。彼等は貧しい。彼等は何もしらず何もない存在だ。しかし彼等は、忠誠心あふれる心をもっている。」

数週間後、ラクダと食料、テント、ガイドが王によってもたらされた。私は、遠回りの道を設定し、リヤドには、ニカ月後に着いた。それは、私のアラビア内部にはいる最初の旅であった。王が言ったのは数カ月ほどのものであったが、それはいつしか数年になっていた。なんと数年の月日は簡単に過ぎ去るものだろう。私はその間、リヤドだけでなく、アラビアのあらゆる地域で時を過ごした。もはや鞍は堅いものではなくなった。

「神がアブドル・アジーズ王の命をのばしてくれますように」シェイク・フェスがそう言った。「彼がバドゥーを愛し、またバドゥーが彼を愛しますように」「ところで、どうしてベドウィンが王を愛さないって法があるものか」と私は自問した。王のナジドのベドウィンに対する気前の良さは、行政上の慣例になっていた。しかし、それは、あまりよい慣例ではなく、イブン・サウドが部族の首長や配下の者に与える一定の金の贈与は、彼等をその金に頼るようにさせ、自らの努力によって生活環境を改善していこうとするあらゆる意図を失なわせはじめている。そしてしだいに寄付を受ける地位に堕落し、無知と怠惰な状態に甘んずるようになってしまっている。

ザイードは、私とシェイク・フェスの話しを聞いていて、もどかしがっているようだった。彼は一方で誰かと話しながら、目をしばしば私の方に向けた。それはあたかも我々の前には、長い道のりがあり、追憶したり思い出を追っかけたりしたのでは、ラクダのペースが少しも早くならないじゃないかというような目つきだった。我々は別れることにした。シャッマル族のベドウィンは、東の方に歩を進め、まもなく砂丘のかなたに消えていった。しかし、我々の立っている所から、彼等の一人が遊牧の歌を歌っているのが聞こえてきた。それは、ラクダ乗りが、自分の胸を打ち、ラクダに乗っている単調さを破ろうとしているかのような歌だった。そしてザイードと私は、はるかタイマにのびる西の道を再び歩き始めた。歌はしだいに消えていった。そして静寂だけが残った。

「あそこに」ザイードの声が突然静寂を破った。「野うさぎだ」ブッシュからとびはねた灰色の毛を私は目で追った。ザイードは鞍の頭につるしてある木の棒をうさぎめがけて投げつけながら、鞍から飛びおりるやいなや、跳びはねるようにして、うさぎの後を追い、まさにうさぎの頭に一撃を加えようとした。その瞬間、ザイードはハムサの根に足をとられ、顔から地面にたたきつけられた。

うさぎの姿は、もう視界の中にはなかった。「あいつは、最高の晩飯だったのに……。」私は、くやしそうな顔をして木の棒をもって立ち上がったザイードを見ておかしかった。「気にするなよ、ザイード。あのうさぎはもともとわれわれのものじゃなかったんだよ」「そうじゃない」ザイードはどこかうつろな返事をした。ふと見ると彼は、痛々しげにびっこをひいているではないか。「ザイード、足が痛いのか。」「ああ、なんでもないです。ちょっとくるぶしをひねっただけです。すぐによくなりますよ。」しかし、よくはならなかった。

数時間後、鞍の上のザイードの顔には、玉のような汗が浮び、彼の足をみると、くるぶしは明らかにねんざしており、みにくくふくれあがっていた。「ザイード、このままこれ以上進むのはよそう。ここでテントを張り野営して、夜休みをとれば、お前も良くなるだろう。」

その夜は、一晩中ザイードは痛みのため、寝つかれなかったのだろう。夜明けのまだ早い時刻に起き出し、私もザイードの突然の事故に興奮してあまり寝むれなかった。「ラクダが一頭しかいない」という彼の声に驚いて周囲を見渡すと、ほんとうにザイードのラクダが、いずこともなく姿を消していた。ザイードは、すぐに探しに行くというのだが、立つことさえできないような状態で、歩いて砂丘を登ったり、おりたりすることはできるはずがない。「ザイード、お前は休んでいろ、私がかわりに行く。自分の足跡をたどれば、戻ってくることは、そう難かしいことじゃない。」

夜明けごろ、いなくなったラクダの足跡を追いながら、私はラクダを進めた。足跡は砂丘の谷間をまくように横切って、砂丘のむこうに消えていた。一時間、二時間、三時間、私は、のり続けた。ラクダの足跡は、はるかかなたまでのびていた。それはあたかも考え抜いて選んだコースのように続いていた。

小休止をとり、ラクダからおりてナツメヤシと鞍に取りつけていた皮の水袋から少量の水を飲んだ時には、とっくに昼をまわったころであった。砂漠の太陽は、頭上に高くあったが、なぜかいつもの輝きを失なっていた。この季節にはふつりあいな、こげ茶色の雲がいつの間にか空にかかり、重苦しくどんよりとした空気が砂漠を包み込み、いつもとは違う趣をもって、砂丘の陵線がかすんできた。私の眼前の高い砂の山の頂きで、なにやら不気味に動くものが目にはいった。動物かな、もしやいなくなったラクダではないだろうか。目をこらしてみると、それは生き物ではなく、砂丘の頂きそのものであり、しかもその頂きは動いていた。非常にゆっくり、さらさらと前方へ…。

あたかもそれは波頭がゆっくり崩れていくように、私の方に向かって、崩れてきているように思えた。砂丘の背後の空に、暗く赤いものが立ちのぼり、まるで突然ベールでおおわれるかのように赤いものの輪郭は、ぼんやりと空に広がり、急速に赤味がかった微光が砂漠を支配しはじめた。顔のまわりに砂が飛びかってくるやいなや、砂丘の谷間を交差しながら激しい突風が四方から、ほえるように湧きおこった。

先ほど見た砂丘の頂きの現象は、見渡す限りの砂の山々でもおこりはじめ、空はみるみるうちに鉛色に暗くなり、飛びかう砂と挨は、赤味がかった露のように太陽を、もうろうと包みこんだ。

砂嵐だ。間違いなく砂嵐だ。私は驚いて、わめき声をあげながら立ち上がろうとするラクダの手網を取って、引きおろした。足元をすくうような強風の中で、かろうじて身をささえながらラクダの前足をしばり、より安全に後ろ足をしばった。それから地面に身体を投げうって、アバーヤで顔をおおった。飛んでくる砂に窒息しないように私はラクダの足のつけ根に顔を押しつけ、ラクダも同じように鼻ずらを私の肩に押しつけてきた。ラクダの身体に守られていない側の私の身体の上には、砂がつもり、埋まらないように時々位置をかえなければならなかった。

私はそれほど心配してはいなかった。というのは砂漠で砂嵐にあったのは、これがはじめてのことではなかったからである。地に身をふせ、アバーヤでしっかりと顔をつつむだけで、私は、嵐が衰えるのをまち、風の音を聞く以外、何もできなかった。またゆるんだ帆をたたくように、風に旗めく旗のように、行軍中のベドウィン軍によって高くかかげられ、ひるがえっている部族旗のように、私のマントを吹きつける風の音をきく以外、何もできなかった。ちょうどそれは、五年ほど前、何千ものナジドベドウィンの騎手達の上に、ひるがえっていたものだった。そして私は彼等にまじって、巡礼のあと、アラファトから、メッカまで戻ってくるところであった。それは私の二度目の巡礼であった。

★  われわれは、なぜイスラームに帰依したか トーマス・ムハムマド・クレイトン

太陽は頭上高くあった。挨りっぽい暑い道を進む。単調ではあるが不思議と美しい響きの詠唱がきこえてきた。そして林の中を抜けていた時、信じられない光景をまのあたりにした。

真新しい木製の塔の上に、真白い衣服とターバンを身にまとった盲目のアラブ人が座し、彼は自らの素晴しい詠唱に酔いしれるように天国について熱っばく語っていた。われわれは、何の意識的な努力もなく、奇妙な拍子に酔ったように座り込んだ。そして、我々にはわからなかったが、その言葉には、精一杯耳を傾けた。

アルラーフ・アクバル、アルラーフ・アクバル、ラーイラーハ・イルラッラー(神は偉大なり、神は偉大なり、アルラーのほかに神はなし。)

それまで、われわれは何も気がつかなかったが、いつの間にか、多くの人間が集まりはじめていた。あらゆる年代、あらゆる風俗、あらゆる身分の人々が、尊敬の念を持ち、おしだまったまま額を集めていた。かれらは、地面に長いマットを広げた。緑色の草と日焼けしたマット。それは見事なコントラストをなしていた。

やがてもっと多くの人々がやってきた。実際われわれは、その集まりがちゃんとできているのかどうか不思議に思いはじめた。そこに来た人達は、靴やサンダルを脱ぎ、長い列をつくった。そして一つの列ができると、その後に又列ができた。私達は驚ろいた。白人、黄色人、黒人。貧者と富者。乞食に商人、あらゆる人が民族、地位にこだわることなく、となりあって並んでいた。

“この集りには、どのような差別もなかった。だれ一人、目の前にあるマットから目を離さなかった。この雑多なグループによって示された同胞愛は、私に消しがたい印象を与えた。………このでき事以来、三年の月日が流れた。いつしか私は、ムスリムになっていた。今、真夜中に目を覚まし、もう一度あの時の美しく哀愁を帯びた詠唱を聞き、真摯な態度と切々と神を求めていた人々のことが甦がえってくる。