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定命

6.定命

良運、悪運ともに、至高なるアッラーの知がそれに先行し、彼の英知がそれを要請したという意味で、その生起がアッラーの定命になることを、我々は信ずる。

定命には以下の4つの段階がある。

 第1段階:〈予〉知 

至高なるアッラーはすべてのことを熟知しておられることを我々は信ずる。彼は過去に起こったこともこれから起こることも、またどのように起こるかも、その永遠の知によって知っておられる。彼には無知の後に知が生ずることはなく、知の後に忘却が続くこともない。

 第2段階:記帳

至高なるアッラーが復活の日に至るまでに生起する事象を『守護された書板』(クルアーン第85章〔星座〕22節)にすべて書き記されたことを、我々は信ずる。

第3段階:意志

至高なるアッラーが天と地に存在するものすべて(が存在すること)を意志されたこと、彼の意志なくしては何ものも存在し得ず、彼の意志されたことはすべて生起し、意志されなかったことは一切生起しないことを、我々は信ずる。

第4段階:創造

最後に、至高なるアッラーが『万物の創造者、万象の主宰者であり、天と地の鍵は彼に属する』(クルアーン第39章〔集団〕62-63節)ことを我々は信ずる。

この4つの段階の定命は、アッラー御自身に由来する事象と人間に由来する事象のすべてを包括する。即ち、人間が語ること、行うこと、行わないことはすべて至高なるアッラーには既知のことであり、彼の御許の「書板」に書き記されており、彼がそれを意志し、創造されたのである。

『それは汝らのうちで正道を歩みたいと望む者のためのものである。しかし万世の主アッラーが御望みにならない限り、汝らが望むということもない。』 (クルアーン第81章〔包み隠す〕28-29節)

『もしアッラーが御望みであったなら、彼らが争うこともなかったであろう。しかしアッラーは御望みのことを為し給う。』 (クルアーン第2章〔雌午〕253節)

『もしアッラーが御望みであったなら、彼らはそれを行わなかったであろう。それゆえ彼らと彼らの担造したものを放置しておけ。』 (クルアーン第6章 〔家畜〕137節)

『アッラーは汝ら(自身)も、また汝らの造るものも共に創造し給う。』 (クルアーン第37章〔整列〕96節)

しかし同時に我々は、至高なるアッラーが人間に行為を行う選択と能力 を与えられたことも信ずる。人間の行為が彼自身の選択と行為能力によるということには、以下の根拠 がある。

(1) 至高者の御言葉『望むままに汝の畑に赴け』(クルアーン第2章 〔雌牛〕223節)、『もし彼らに出征する意志があったなら、その準備をしていたであろう。』 (クルアーン第9章〔悔悟〕46節)

このようにアッラーは、人間が望むままに赴き、また意志によって準備をすることを肯定されているのである。

(2) 命令と禁止が人間に課されていること。もし人間に選択と行為能力がなければ、アッラーは不可能なことを義務として課されたことになる。しかるにそれは至高なるアッラーの英知と御慈悲、また『アッラーは誰にもその能力以上のことを課し給わない。』(クルアーン第2章〔雌牛〕286節)との真実の御言葉にも反している。

(3) 善人の善行への称賛と悪人の悪行の非難、並びにそれぞれに相応しい報い。もし行為が人の意志と選択とによらずに起きるとすれば、善人の称賛は無駄であり、悪人の非難は不正である。ところがアッラーは無駄や不正からは隔絶しておられるのである。

(4) 至高なるアッラーが使徒たちを『福音告知者、警告者として遣わされたのは、人類が使徒たち(の派遣)の後にアッラーに対して弁明が出来ないようにするためである。』(クルアーン第4章〔婦人〕165節) しかるに、もし行為が人間の選択と意志によるのでないとすれば、使徒たちの派遣によって彼の弁明を無効にすることはできなくなる。

(5) 行為者は皆、強制されているという感覚を一切持たずに何かをしている、あるいはしないでいると感じている。彼は、純粋に自分の意志によって立ち、座り、出入りし、また旅行し、滞在するのであり、誰かに強制されているとは感じていない。自己の選択で何かを行う場合と強制されて行う場合とを実際、彼ははっきりと区別している。シャリーアも法規定の上で両者を区別しており、至高なるアッラーの権利に属することで強制されて行ったことについては行為者の責任が問われることはない。

罪人(アッラーの命に背く者)はアッラーの定命を罪の言い訳にすることはできないと、我々は考える。なぜなら、彼は自分の選択で、アッラーが彼にそうと定め給うたことを知らずに罪を犯すからである。人は誰もアッラーが定められたことが実際に生起するまでは、アッラーの定命を知ることは出来ないのである。

『誰も明日自分が何を稼ぐかを知らない。』 (クルアーン第31章〔ルクマーン〕34節)

論証者が自分の知らないこと(アッラーの定命)を論拠に論を立てる、そのような言い訳がどうして有効となりえよう。至高なるアッラーはその御言葉の中で既にこの詭弁を論破されている。

『多神崇拝を犯す者らは言うであろう。「もしアッラーが御望みなら、我々も先祖たちも多神崇拝を犯さず、また何も禁ずることはなかったであろう。」同様に彼ら以前の者らも我らの懲罰を味わうまでは信じようとはしなかった。言え。「お前たちに知識があるのか。それなら我ら(アッラー)に示して見よ。いやお前たちはただ憶測によって思いを廻らしているに過ぎない。」』 (クルアーン第6章〔家畜〕148節)

我々は定命を言い訳に用いる罪人に対しては、「なぜお前は『(アッラー フの命への)服従を、至高なるアッラーによる定命である』と言って行わないのだ。」と反論することが出来る。なぜなら服従と反抗の間には、自分が実際にそれを行ってみるまでは、それが定められていたかどうかを知るすべがないという点では全く違いがないからである。

それゆえ預言者は教友たちに、「お前たちはすべて、天国に入るか火獄に堕ちるかは既に定められている。」と言われたとき、教友たちが、「それならば我々は(定命に)身を委ね、行為を放棄してはどうでしょうか。」と尋ねたのに対し、「いや、そんなことをしてはならない。誰も皆、自分が創造された目的に沿うことが易しいようにされているのであるから。」と答えられたのである[xx]。

また我々は定命を口にする罪人に対して言おう。

「もしお前がマッカ(メッカ)に行きたいと思ったとき、道が2本あったとしよう。そこで信頼の於ける人が、片方は危く険しい道であり、もう一方は安全で平坦な道であると教えてくれたなら、お前は危険な道を選び、『これが私に与えられた運命だ。』と言うことは出来ないだろう。またもしお前がそんなことをしたら、人はお前を狂人の類いと見みなすだろう。」

また次のように言うことも出来よう。「もしお前に2つの仕事があり、片方がよりランクが上の職であればお前はそちらで働くだろう。その際、下位の仕事を自分で選んで定命を主張することなど出来ようか。」

またこうも言えよう。

「もしお前が病気になったなら、お前は病院の門を叩き、手術の痛みや薬 の痛みを我慢してでも治療を受けるだろう。それなのにお前はなぜ『罪』と いう心の病に対しては同じ忍耐が出来ないのか。」

また、至高なるアッラーにはその完壁な英知と慈悲ゆえに、悪が帰されることはないと我々は信ずる。預言者は、ムスリムの伝える伝承において「あなた(アッラー)に悪が帰されることはありません」と言っておられる[xxi]。

至高なるアッラーの定め(の御業)は彼の慈悲と英知に由来するため、それ自体に悪は決して存在しない。

「あなたが定められたことの悪から私を護り給え。」という預言者がアル=ハサン[xxii]に教えられたクヌート(敬虔)の祈祷の中の言葉からしても、悪はただ、アッラーの定められた事柄の中にある。つまり、預言者は、悪を(アッラー御自身にではなく)アッラーが決められた事柄に帰されたのである。さらに、アッラーが定められたことの悪にしても、それは純粋悪ではなく、ある場においてある視点から見れば悪であるものも、別の視点から見れば善であったり、また、ある場においては悪であっても、別の場にあっては善となったりするのである。

不作、病気、貧困、恐怖といった地上の厄災は確かに悪であるが、それもある観点から見ると善なのである。至高なるアッラーも仰せられる。

『人の手が稼いだことのために厄災が陸と海に現れた。それは彼らに(現世で行った)所業の(報いの)一部を味わわせるためなのである。おそらく彼らは悔い改めよう。』(クルアーン第30章〔ビザンチン〕41節)

また、盗人の手の切断や姦通を犯した者の石打ちは、彼らにとっては手を切り落とされ、命を失うという点で確かに悪ではあるが、それが彼らの贖罪となり、現世と来世の両方で罰を受けることを免れさせるという他の側面から見れば善であり、また、(他人の)財産と名誉と血統の防衛という側面から見ても善なのである。