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アッラー

1.アッラー

至高なるアッラーの「主性」、すなわちアッラーが万象をつかさどる王、創造者にして主であることを、我々は信ずる。

至高なるアッラーの「神性」、すなわちアッラーこそ真の神であり、他のいかなる崇拝対象も虚妄に過ぎないことを、我々は信ずる。我々はまた、アッラーの名称と属性、すなわちアッラーには美名と完全性を表す属性があることを信ずる。

さらに、これら3点におけるアッラーの唯一性を、我々は信じる。至高なるアッラーの以下の御言葉にあるように、アッラーはその「主性」、「神性」、

「名称と属性」のいずれにおいても無比にして比類のない御方なのである。

『(アッラーは)天と地とその間とその間にあるすべてのものの主におわします。それゆえ彼に仕え、彼の崇拝において耐え忍べ。それとも汝は彼と並び称されるものを知っているとでも言うのか。』(クルアーン第19章〔マルヤム〕65節)

また我々は、アッラーが以下のような御方であることを信ずる。

『アッラーは、彼の他には神はなく永遠に自存される御方。仮眠も熟睡も彼をとらえることはない。天地にあるすべてのものは彼に属する。彼の御許しなくして誰が彼の御許で執り成すことが出来ようか。彼は人々の前にあることも後にあることも知っておられる。彼の御許しがない限り、人は彼の知について何一つ窺い知ることはできない。彼の台座は天地を覆い、彼は天地を守って疲れを知られない。彼は至高にして至大におわします。』(クルアーン第2章〔雌牛〕255節)

また次のことを我々は信ずる。

『彼こそ、彼の他に神はなく、幽玄界のことも現象界のことも知る慈悲あまねく慈愛深いアッラーにおわします。彼こそ、彼の他に神はなく、王にして至聖者、平安と信仰の授与者、管理者、威力者、至強者、至尊者におわします。アッラーは多神教徒たちが彼に配するものを遥かに超越し給う。彼こそ創造し、形を与え給う御方アッラーにおわします。彼には美名が帰され、天地にあるものは彼を称える。彼は威力ある知悉者におわします。』(クルアーン第59章〔集合〕23節)

またアッラーに天地の大権が属することを我々は信ずる。

『天地の大権はアッラーに属する。彼は御望みの者に男子を授け、また御望みの者に女子を授け給う。あるいはまた男と女の組ともなされれば、御望みの者は不妊ともなされる。まことに彼は全知にして全能におわします。』(クルアーン第42章〔相談〕49-50節)

また次のことを我々は信ずる。

『彼に対比しうるものは何一つ存在しない。彼はすべてを見聞される御方におわします。天地のすべての鍵は彼に属する。彼は御望みの者に御恵みを拡げ、また狭め給う。まことに彼はすべてのことを知り給う。』(クルアーン第42章〔相談〕11-12節)

また次のことを我々は信ずる。

『天地に生きるものでアッラーの御恵みを受けていないものはない。彼はその居住所も居留地も知っておられる。すべては明白な書冊の中に書き記されているのである。』(クルアーン第11章〔フード〕6節)

また次のことを我々は信ずる。

『幽玄界の鍵は彼の御許にあり、彼の他には誰もそれを知る者はいない。彼は陸と海にあるすべてのものを知っておられる。1枚の木の葉でさえ、彼の知らないうちに落ちることはなく、また暗闇の大地の一粒の穀粒といえども、生気あるものも枯れたものも明瞭な天の書の中に記されていないものはない。』(クルアーン第6章〔家畜〕159節)

また次のことを我々は信ずる。

『まことに最後の審判の時に関する知識はアッラーの御許にこそある。彼は雨を降らせ、また体内にあるものをも知っておられる。しかし人は誰も明日、自分が何を稼ぐかを知らず、誰も自分がどこで死ぬのかを知らない。まことにアッラーこそすべてに通暁される御方におわします。』(クルアーン第31章〔ルクマーン〕34節)

またアッラーがお望みのことを御望みのときに、御望みのままに語られることを我々は信ずる。

『アッラーはムーサーに語りかけ給うた。』(クルアーン第4章〔婦人〕164節)

『ムーサーが我ら(アッラー)との約束の時に来て、主が彼に語りかけ給うた時…』(クルアーン第7章〔高壁〕143節)

『我ら(アッラー)はシナイ山の右側から彼を呼び寄せ、親しく語りかけるために、近くに招き寄せた。』(クルアーン第19章〔マルヤム〕52節)

また次のことを我々は信ずる。

『たとえ海の水がすべて主の御言葉を書き記すためのインクであったとしても、主の御言葉が尽きる前に海水のほうが尽きてしまうであろう。』(クルアーン第18章〔洞窟〕109節)

『たとえ地上の木がすべてペンであり、また海がインクで更に7つの海を添えたとしても、アッラーの御言葉を書き尽くすことはできない。まことにアッラーは威力者にして英知ある御方におわします。』(クルアーン第31章 〔ルクマーン〕27節)

また、アッラーの御言葉こそ情報においては最も信頼がおけ、規範においては最も義しく、物語においては最も美しい言葉であると、我々は信ずる。

『汝の主の御言葉は真実と公正において完壁であった。』(クルアーン第6章〔家畜〕115節)

『誰がアッラーより正しく語りえようか。』(クルアーン第4章〔婦人〕87節)

また、聖クルアーンは文字通り至高なるアッラーの語られた御言葉であり、アッラーがそれを天使ジブリール(ガブリエル)に授け、ジブリールがそれを携えて預言者の心に下ったことを、我々は信ずる。

『言え。「聖霊(ジブリール)が真理をもって、汝の主の御許からそれ(クルアーン)をもたらした。」』(クルアーン第16章〔蜜蜂〕102節)

『まことにこれ(クルアーン)は、万世の主からの啓示である。誠実な霊(ジブリール)がそれを携えて汝(ムハンマド)の心に下った。それは汝(ムハンマド)が明瞭なアラビア語で語る警告者となるためである。』(クルアーン第26章〔詩人たち〕192-195節)

また、畏くも貴きアッラーが本質においても属性においても被造物の高みにあって隔絶しておられることを、我々は信ずる。至高者の次の御言葉にある通りである。

『彼はいと高く偉大なる御方。』(クルアーン第2章〔雌牛〕255節、42章 〔相談〕4節)

『彼は僕どもの上にある至高者。彼こそは英明にして全知なる御方。』(クルアーン第6章〔家畜〕18節)

我々はまた、『彼は天地を6日で創造し、そののち玉座につき、万象を司り給う』(クルアーン第10章〔ユーヌス〕3節)ことを信じるが、「玉座につく」とは、アッラーがその威光と偉大さに相応しい比類なき卓越性をもって玉座を遥かに超越しておられるということであり、その具体的様態はアッラー御自身しか知り給わないことである。

我々はまた、至高なるアッラーが被造物と共におられ、しかも玉座にあって人々の状況を知り、声を聞き、所業を見、すべてを管理しておられると信ずる。彼は貧者に恵みを垂れ、虐げられた者を助け、御望みの者に権能を授け、御望みの者から権能を取り上げ、御望みの者を高め、御望みの者を卑しめ給う。善きものは彼の御手にあり、彼にはすべてのことが可能である。そしてこのような業をなし給う御方は、被造物と共におられることが真実なら、被造物を遥かに超えた玉座の高みにおられることもまた真実なのである。

『彼に対比しうるものは何もない。彼はすべてを見聞される御方におわします。』(クルアーン第42章〔相談〕11節)

我々は、アッラーの受肉を説く一派[iii]やジャフム派[iv]のように、アッラーが地上にあって被造物と共におられるとは言わない。我々はそのようなことを言う者を不信仰者、あるいは道を踏み外した者とみなす。なぜなら彼らはアッラーに、相応しからざる不完全な性質を帰しているからである。

我々は、使徒がアッラーについて告げられたこと、すなわち、「アッラーは毎夜、最下天まで降り来り、夜半の3分の1をそこに留まり、『我に祈る者に我は応えよう。我に祈願する者の願いを我は適えよう。我に赦しを乞う者を我は赦そう。』と仰せられる」[v]ことを信ずる。

また褒むべきアッラーの次の御言葉により、アッラーが復活の日に人々を選り分けるために来臨し給うことを、我々は信ずる。

『いや決して。大地が粉々に砕かれ、汝の主が天使を従えて来臨し、地獄が姿を現すとき、そのとき人は思い起こすだろう。しかしそのときになって思い起こしたとして、それが何になろうか。』(クルアーン第89章〔暁〕21-23節)

また、至高なるアッラーが『意志されたことを為し給う御方』(クルアーン第85章〔星座〕16節)であることを、我々は信ずる。そして、アッラーの「意志」には2つの意味があると信ずる。

一つは存在付与的意志であり、これによって意志が対象とする事物は生起するが、必ずしもそれはアッラーの御心に適うとは限らない。この場合の「意志」は、次の至高者の御言葉にあるように、「意図」という意味である。

『もしアッラーがお望みなら、彼らは互いに争わなかったであろう。しかしアッラーは意志されたことを遂行される。』(クルアーン第2章〔雌牛〕253節)

『もしも(アッラーが)汝らを迷わせようと意志されたなら。彼こそは汝らの主におわします。』(クルアーン第11章〔フード〕34節)

もう一つは規範的意志であり、これによって意志が対象とする事物は必ずしも生起するとは限らないが、次の御言葉のように、アッラーはそれを常に嘉される。

『アッラーは彼らを赦そうと意志される。』(クルアーン第4章〔婦人〕27節)

存在付与的意志であれ規範的意志であれ、アッラーによって意志されたものは彼の英知に則っており、彼が「有れ」と定め給うたことも、人がアッラーを崇め行うようにシャリーア(聖法)として規定し給うことも、我々にその真意の一端を窺い知ることが出来ようと、あるいは理解不可能であろうと、すべて彼の英知によってなされ、英知に適っていることを我々は信ずる。

『アッラーこそ最善の裁決者ではないか。』(クルアーン第95章〔無花果〕8節)

『信仰堅固な者にとって、アッラーより裁決に優れた者が他にあろうか。』(クルアーン第5章〔食卓〕50節)

また、至高なるアッラーは彼の友たちを愛し、彼らもまたアッラーを愛することを、我々は信ずる。

『言え。「汝がアッラーを愛するなら、私(ムハンマド)に従え。アッラーも汝を愛されよう。」(クルアーン第3章〔イムラーン家〕31節)

『やがてアッラーは、彼が愛し、彼らもまたアッラーを愛するような民を輿されよう。』(クルアーン第5章〔食卓〕54節)

『アッラーは耐え忍ぶ者らを愛される。』(クルアーン第3章〔イムラーン家〕146節)

『そして公正に振る舞え。アッラーは公正な者たちを愛される。』(クルアーン第49章〔部屋〕9節)

『最善を尽くせ。アッラーは最善を尽くす者たちを愛される。』(クルアーン第2章〔雌牛〕195節)

また、アッラーが、シャリーア(聖法)として定められた言動を嘉し、禁令を侵犯する言動を憎まれることを、我々は信ずる。

『たとえおまえたちが信じないとしてもアッラーはおまえたちを必要とはされない。アッラーは人間の不信仰を喜ばれず、おまえたちが感謝すれば満悦される。』(クルアーン第39章〔集団〕7節)

『アッラーは彼らが出征することを嫌い、そこに留め置かれ、「家に残っている者と共に残っておれ。」と仰せられた。』(クルアーン第9章〔悔悟〕46節)

また、至高なるアッラーが、信仰し善行に勤しむ者らを愛でられることを、我々は信ずる。

『アッラーは彼らを愛でられ、彼らも彼に満ち足りる。これこそ主を畏れる者への報奨である。』(クルアーン第98章〔明証〕8節)

また、アッラーが彼の御怒りを蒙るに相応しい不信仰者などに対しては御怒りを向けられることを、我々は信ずる。

『アッラーについて悪い考えを持つ者にはアッラーが御怒りを向けられ、厄災が下ろう。』(クルアーン第48章〔勝利〕6節)

『不信仰に胸を拡げた者にはアッラーの御怒りが下り、苛酷な懲罰がある。』〈クルアーン第16章〔蜜蜂〕106節〉

また、至高なるアッラーには尊厳と栄光に満ちた御顔があることを、我々は信ずる。

『尊厳と栄光に満ちた汝の主の御顔は恒存する。』(クルアーン第55章〔慈悲あまねく御方〕27節)

また、至高なるアッラーには高貴で威力に満ちた御手があることを、我々は信ずる。

『いや、彼の御手は広く開かれている。彼は御心のままに惜しみなく与え給う。』(クルアーン第5章〔食卓〕64節)

『彼らはアッラーを正しく崇拝しない。最後の審判の日、彼は大地のすべてを一握りにし、その右手に諸天を巻かれよう。彼に称えあれ。彼は彼らが配するものを遥かに高く超えておわします。』(クルアーン第39章 〔集団〕67節)

また、至高なるアッラーには字義通りに2つの目があることを我々は信ずる。なぜなら至高なるアッラーの御言葉に、『我らの目の前で、我らの啓示にしたがって方舟を作れ。』(クルアーン第11章〔フード〕37節)とあり、また預言者も、「光が彼の覆いであり、もし彼がその覆いを取られたら、アッラーの御顔の御威光はそれを見る被造物を焼き尽くすだろう。」[vi]と言われているからである。

アッラーが真に2つの目を有し給うことでスンナ派は一致しており、「彼(ダッジャール)は隻眼であるが汝の主は隻眼ではない。」[vii]という、ダッジャール(アンチ・クリスト)についての預言者の言葉もそれを裏付けている。

また、至高なるアッラーが『人の目は彼をとらえることは出来ないが、彼は人の見るものをすべて掌握される。彼は精妙にしてすべてをみそなわす御方である』(クルアーン第6章〔家畜〕103節)ことを我々は信ずる。

『その日に、主の尊顔を拝した者の顔は輝く。』(クルアーン第75章〔復活〕22-23節)

また、至高なるアッラーがその属性の完全性において比類がないことも、我々は信ずる。

『彼に対比されうるものは何もない。彼はすべてを見聞される御方におわします。』(クルアーン第42章〔相談〕11節)

また、アッラーがその生と持続の完全性により、『仮眠も熟睡も彼を捉えることはない。』(クルアーン第2章〔雌牛〕255節)こと、またその義の義の完全性により、いかなる者をも不正に扱われることはなく、監督と統括の完全性ゆえに、その僕たちの所業を見逃されることは決してないことを、我々は信ずる。

また、その知と権能の完全さゆえ、地にあっても天にあってもアッラーに不可能なことはなく、『何かを御望みになるときには、彼はただ「有れ。」と仰せになり、するとそれは生ずるのである。』(クルアーン第36章〔ヤースィーン〕82節)こと、そしてその力の完全性により、疲労、困ばいされることはないことを我々は信ずる。

『我らは天地とその間にあるすべてのものを6日のうちに創造し、少しの疲れも覚えなかった。』(クルアーン第50章〔カーフ〕38節)

また、神名と属性についてアッラーが御自身について明言されたこと、および使徒がアッラーについて述べられたことがすべて確かな真実であることを我々は信ずるが、その際に次の2つの重大な誤謬に陥ることはない。

第1は擬人化、すなわち至高なるアッラーの属性が被造物の属性と同様であると心中で考え、あるいは主張することである。

第2は具体化、すなわち至高なるアッラーの属性はこうこうであると憶断することである。

また、アッラーが御自身について否定し給うたこと、あるいは使徒がアッラーについて否定されたことは否定されるべきことであると我々は信ずる。そして、そうした否定はそれとは正反対の性質を(アッラーに相応しい美質として)認めることを含意している。

そして、アッラーとその使徒がアッラーについて語らなかったことについては我々は沈黙を守るのである。

アッラーの属性についての議論においては以上のような態度を取ることが義務であると、我々は考える。

なぜなら至高なるアッラーが御自身について確言、あるいは否定されたことは、アッラー御自身が御自身について語られることであるが、誉むべきかなアッラーこそ御自身について最も良くご存じの御方であり、最も正しく美しく適切な表現で語られたのであり、我々その僕には彼のすべてを知ることは不可能だからである。また、使徒がアッラーについて確言、あるいは否定されたことは、人類の中で主について最も良く知り、かつ最も誠実で信頼すべき雄弁なアッラーの使徒がアッラーについて語ったことである。至高なるアッラーとその使徒の言葉は、知識の広大さ、信頼性、明瞭性のすべてにおいて最も完壁であり、それを拒んだり認めることをためらうことは許されないのである。

至高なるアッラーの属性に関し我々が細部と原則において述べ、断言あるいは否定して来たことはすべて、我らの主から授かった書クルアーンと我らの預言者のスンナに基づいており、またウンマの先達と彼らの後に続いた導きの学匠たちの歩んだ足跡を辿っているのである。

我々は、アッラーの属性に関してはクルアーンとスンナの明文を字義通りに伝え、畏くも貴きアッラーに相応しい正しい意味に解釈しなけれぱならないと考える。それをアッラーとその使徒が明文で意図したものとは異った意味に歪曲する者、あるいは否定する者、また擬人的に解釈したり、それに具体的様態を付与する異端者の道を我々は歩まない。

至高なるアッラーの御言葉にも『彼らクルアーンについてよく考えてみたことはないのか。もしそれがアッラー以外のものに由来するなら、その中にたくさんの矛盾を発見したであろうに。』(クルアーン第4章〔婦人〕82節)とあるように、至高なるアッラーの書(クルアーン)とその預言者のスンナにあることはすべて真理であり、どこにも矛盾のないことを我々は確信する。なぜなら、話に相互矛盾があるとすれば、どちらかが虚偽であることになるが、そのようなことは至高なるアッラーとその使徒の言葉には起こりえないからである。それゆえ、至高なるアッラーの書、または使徒のスンナの中に矛盾がある、あるいは両者の間に矛盾がある、と言い立てる者は悪意によって語っているか、心が歪んでいるためにそう言っているのであり、そのような者は至高なるアッラーに立ち帰って罪を悔い改めさせねばならない。

至高なるアッラーの書と使徒のスンナの中に、あるいは両者の間に矛盾があると妄想する者は、知識の不備か、理解の不足、思索の欠如からそうするのであり、真理が明らかになるまで学問を修め、思索を積まねばならない。また、理解できなければ、彼は、この問題を学者に委ね、愚かな妄想を止め、知識の堅固な者が言うように『我々はそれがすべて我らの主から齎されたものであることを信じます。』(クルアーン第3章〔イムラーン家〕7節)と言って、クルアーンにもスンナにも、また両者の間にも矛盾や相違が存在しないことを悟らねばならない。